傍に居るなら、どうか返事を


 目の前でチカチカしているものが、蛍光灯の明かりだと認識出来たのは、どれほどの時間が経過した後だったのか、成歩堂にはわからない。
 身体中が怠くて、未だに痺れたままの頭の芯は思考を妨げる。唸り声を上げ、寝返りを打とうとした腕がやけに重く痺れる事に気付いて、頭をそちらへ向けた。
 金色の髪。
 あちこち汚れ解れていたが、変わらぬ輝きを留めている。 夢現をさまよいながら、徐々に覚醒に向かっていた意識は、その瞬間に一気に目覚めた。
 そうして、今のいままで、響也を抱き込み腕の中に閉じこめていたという事実にも気が付いた。手や足、果ては身体中にべタベタと付着しているものが何であるのかわからないはずもなく、成歩堂はゴクリと喉を鳴らして、もう一度腕の中にいる人物を確認しようとした。
 記憶は定かではない。けれど、確かに自分は響也を抱いたのだろう。彼に選択の権利を与える事もなく、己の慾のままに。

「…起き…たの?」
 視線の先に充血した瞳が成歩堂を見つめていた。
 問い掛けられた声は酷く掠れていて、拭う事の無かった涙の跡がくっきりと頬に残っている。馬鹿みたいに目を見開いている自分の姿がその瞳に映り込む。
 成歩堂が視線を外せずにいれば、響也の瞳が見る間に潤んでいくのがわかった。彼自身もわかったのか、くっと唇を噛み締めて響也は顔を伏せた。
 二の腕からぶら下がっている黒いシャツが隠す事の出来ない肩は、微かに震えている。
「…解いて…。」
「え…?」
 何を言っているのか理解出来ずに、顔から下に目をやり我ながらギョッとする。幾つもの痕が赤く胸元を飾っていて、自分がこれをやったのかと思うと(それ意外考えられないにも係わらず)そら恐ろしくなる数に身震いする。
「お願い…もう、痛い…。」
 涙を呑む音がして震える声がそう続く。
 何がと問い掛けようとして、彼の両腕が背中に回されているのに気付く。まさかと、身体を傾け覗き込めば、想像に違う事なく響也の両手は後ろ手に拘束されていた。彼が普段身に付けているチェーンベルトが、きつく皮膚に食い込んでいる。
 かける言葉など到底見つからず、成歩堂は無言で絡み合った鎖に手を伸ばした。頑丈に巻きつけてあるそれの手加減の無さに、我ながら苦笑する。
 そうして鎖と格闘してる間、背徳感は充分に感じていたにも係わらず、露わになっていた響也の肌に目を奪われる。
 響也が纏っているのは、シャツ一枚。全ての肌が目の前に晒されていた。
 滑らかな褐色の肌。時折触れた指先が、程良い弾力感と手触りを教えてくれる。腿を伝う赤と白の線。その先の色。

「うっ…。」

 時折上がる苦痛の声も、成歩堂の背筋をゾクリと震わせた。
どんな感情よりも、勿体ないという言葉が浮かぶ自分が汚く思える。こんな綺麗な生き物を陵辱したのに、何も記憶に残っていないなど不覚すぎる。
 解いた鎖を床に落とせば、響也の口から大きな吐息が漏れた。身じろぐ様子に、成歩堂は慌てて身体をどかすと、両手をゆっくりと前に回し、それを支えにして起きあがる。
 前髪は貌の半分を隠していたが、苦痛にだろう噛み締められた唇はよく見えた。上半身を起こせば、下腹部の髪と同じ淡い翳りに白濁の汚れがこびりついている。

 響也の姿、仕草、その全てが淫靡だ。

 罪悪感という名の理性が、欠片も成歩堂に残っていなかったならば、もう一度彼を捕まえて情事を強要していただろう。本能はゆっくりと鎌首を持ち上げ始めていた。その欲求のまま、成歩堂は視線を向け続ける。しかし、響也は成歩堂を罵るでもなく、茫然と床に視線を落としていた。
 成歩堂には、彼を心を推し量る事しか出来ない。  それでも、己が無理矢理男を受け入れさせられたらと思えば、加害者である自分から声を掛けるのも憚られた。

「…僕の、服…」

「え、ああ。」
 周囲を見回せば、さしたる被害は受けていなかった様子の服が床に散らばっていた。掻き集めて響也の前に置いてやると、震える手で服を身につけ始める。
 汚れた身体を拭いた方がいいのではないかと思い、成歩堂は躊躇いがちに声を出した。あの、と声を出しただけで、ビクリと響也の肩が大きく揺れる。  その反応に、成歩堂も声を失った。

「…アンタなんて…。」

 俯いている顔から、ボロボロっと液体がこぼれ落ちて床に散った。まだ、乱れた服装のままで響也は勢いよく立ち上がる。途端ふらりと足元が揺らぎ、壁に背を打った。
「響也く…!」
 咄嗟に差し伸べた手は当然のように払いのけられ、しかし、成歩堂の目は壁に釘付けになる。立っている響也の腰の辺りに、刻まれた10本の線。
 逃げようとして、此処に響也は縋り付いたのか? それを自分は拘束し、無理矢理身体を開かせたのか?
 
「…謝罪を…した方がいいかい?」

 そう口にすれば、響也は成歩堂鋭い視線で睨み付けた。  大粒の涙を讃えた瞳は嫌悪と怒りに濁っていた。いままで彼が自分に向けてくれていた眼差しと明らかに違うそれに、成歩堂は絶望する。

 笑顔が好きだった。気に入っていた。

 取り返しのつかない事をしてしまった事に、気持ちは凝固していた。なのに、絶望に固まったまま動かない心と裏腹に、口は勝手に言葉を続けていた。  元弁護士の弊害かと脳裏に苦笑に似た感情が浮かぶ。

「…どうも人肌が恋しかったみたいで悪かったね。無理矢理だったけど、無防備に僕に近付いた君にも非がない訳じゃない。」
「無理矢理って…? アンタわかって…。」
「え?」
 ドンと、響也の腕が壁を叩く。身体中を震わせ、水槽から放り出された魚みたいに口をパクパクと動かして、しかし響也は沈黙した。
 響也の告げる意味に違和感を感じて、もう一度尋ねる為に立ち上がった成歩堂に響也は全身を震わせた。恐怖と怒りとそして悲しみとグチャグチャになった感情を露にした顔は、成歩堂が始めて見たものだった。
「…汚いぞ…。アンタ知ってて…僕を」
「響也くん」
 それでも、とても綺麗で、成歩堂は目を離せない。
「近付くな! アンタなんか大嫌いだ!!」
 悲鳴と同じ叫び声で、響也は成歩堂を罵倒すると、痛むだろう身体を引き摺るようにして部屋を出て行った。

 縋り付いてでも引き止め、土下座して謝罪の言葉を口にすれば…あるいは。

 馬鹿な想いに、成歩堂は嗤った。そして、思い出したように机に置かれたままのカップを手に取る。僅かに残った液体に舌を浸す。
 奇妙な味に成歩堂は改めて確信した。香水が混入した訳ではないのだ。理性の箍を飛ばす何かが霧人の手によって入れられたに違いない。あの男は薬品に聡い。それは友人として知った、男の一面で。
 そうして、自分と関係のある香水を部屋へ撒く事で、目の前の人間を自分と錯覚させたのだ。
成歩堂はまんまとそれに嵌ったに過ぎない。
 響也に対する感情も霧人には悟られていたのだと思えば、完敗を認めるしかない。
 
「…随分汚しちまったな…」
 ははと軽く嗤い、あらぬ汚れがこびりついた床を見る。
 時間が経ってしまったそれは、乾き指で拭った程度では取れそうもない。また、雑巾を取りに給湯室に向かい、その途中で窓を開けた。吹き込んでくる冷えた空気が香水の香りを消し去っていく。濡らした雑巾で床を拭く。
 
 自分の弟を強姦させてまで、牙琉は、自分と響也を引き離そうとした。
此処までして、近付く事を恐れた。その理由は、ひとつしかないだろう。親しくなった響也の口から、偽造者を告発した人間の名前が出ることを恐れたからだ。
 牙琉霧人が目的のために成歩堂に近付いた様に、成歩堂もある確信の元で霧人に近付いた事がある。
 証拠を登録した日が裁判の前日だったという事実。響也が前日に示されただけの証拠で何故、偽造をしていると信じたのか。つまり、元々証拠を提出した人物は、響也が強い信頼をおいている人物。日本に帰国したばかりの右も左もわからない彼が掛け値無しに信頼を置く人間など、考えるまでもない。 
 こうして親しくなり響也の人となりを知る事にはなったが、それでも、と成歩堂は疑っていた。兄弟で自分を填めた可能性が無いわけではない…と。しかし、この事で牙琉響也もまた、兄に填められたのだと確信できた。
 自分を貶める手伝いをさせられた挙げ句に…。
 
 ぞくりと成歩堂の背筋が粟立つ。

 この程度で良かったのかもしれないという思いがふいに湧く。万が一、響也が霧人の不正に気付き告発しようと動いたのなら、彼は口封じをも厭わないかもしれない。
 しかし、これで、響也自身に危険が及ぶ事はないはずだ。彼は自分を憎んでいる。兄に逆らう事はないだろう。

 ふっと自嘲の笑みを浮かべて、成歩堂は天井を見上げた。
それでも大切に思ったものは、すべて手から零れ落ちていくような気がするなぁと呟いた。

「…まだ終わった訳じゃないよ、牙琉センセ。」



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